知らなかった頃の自分
足がすくみ、脇汗がじっとり出る。緊張しすぎて逃げ出したくなる。「何で、こんな話を受けてしまったんだろう?」
自分の浅はかな判断を呪いたくなる。
これまでの人生で、そんな思いをしたことが何度かあります。
新しい赴任先や、引っ越し先で、全く異質な世界の扉を開けてしまった時です。一度足を踏み入れると、もう知らなかった頃には二度と戻れない──。
皆さんには、そんな経験はありますか?
私にとって、特に印象に残っているのは次の3つです。
家庭科教諭として初めての赴任校篠山の山奥にある農業科の分校での勤務。主人の駐在に伴う、アメリカ・シリコンバレーでの生活。
篠山の分校で知った世界
篠山の分校に赴任するまでの2年間、
阪神間にある普通科の学校で非常勤講師をしていた私は、分校への辞令を聞いた時、その学校がどんな所か全く想像がつきませんでした。
しかも、一学年一クラス、わずか40名ほど。そのうち女子生徒は10名前後という構成です。当時、家庭科は女子のみの授業。少ない人数で授業や実習を進めるのは初めての経験でした。
手探りで仕事をする毎日だったのを覚えています。この学校で知ったのは、農村の暮らしの大変さです。
農業だけでは生活が成り立たない家庭では、ダブルワークが当たり前。高校生の生徒たちも家での役割を担い、学校生活とのバランスを取るのに苦労していました。
九州の山奥で育ち、農家の祖父母を持つ私には、それほどの違和感はないと思っていました。自分自身は教師をしていた家庭で育ち、農家の大変さをこれっぽっちも分かっていなかった。家庭訪問などで生徒達の様子を知れば知る程、感じる無力感。
「農業科でも、分校でも何とかなる」、それが、どれだけ傲慢な考えだったかを思い知らされる日々でした。
アメリカでの生活で知った世界
アメリカでの3年弱の生活は、それまでの日本での常識や価値観が全く通じない世界でした。日本の学歴なんて全く通用しない現実。
それまで、必死で勉強して入学した国立大学の学歴にしがみついて生きて来た自分には本当にショックな事でした。
日本の狭い視野の中で生きてきた自分を思い知らされました。また、長男を現地で出産し、アメリカの教育や子育てにも触れました。
その違いに、「日本の教育や子育て、このままでいいの?」と、焦燥感を抱かずにはいられませんでした。
灘高での特別な経験
最後に、灘中学・高校での家庭科非常勤講師としての15年間。この経験は特別すぎて言葉で表現するのが難しいほどです。
生徒たちは多様な価値観を持ち、個を大切にしながら学び合っていました。家庭科の実習でも、お互いに教え合う姿がありました。
この学校で知ったのは、広い視野と高い視座を持って、切磋琢磨し続ける生徒たちの存在です。「こんな世界があるのか」と感銘を受けた経験でした。
自分が講師として何が出来るかよりも、生徒達や他の教職員の皆さんに助けてられて仕事が出来た日々。
10年以上の勤務の中で、学校をとおして、いろいろな方に出会う機会をいただきましたが、「もっと何か出来ることがあるはず」と、考え続ける思索の深さとネットワークを駆使した行動力を持つ人達の実践を間近で見せていただいたことは、とても貴重な経験となりました。
知ったがゆえの葛藤と決意
これらの経験を通じて知った世界。
農村の暮らしや、日本の立ち位置、グローバル社会での教育・子育て。世界のために、社会のために行動し続ける人達の存在。
それらは、退職も、時に「もっと頑張らなければ」と自分を追い込む気持ちになり、「知らなかった方が楽だったかもしれない」と感じることもあります。
何も知らず、普通校でだけ家庭科を教えて退職していたら、今頃はもっと気軽なのんびりした毎日を過ごせていたかもしれません。
でも、この葛藤こそが、自分の退職後のセカンドライフを切り拓く力につながっているのではないかとも思うのです。
知ることで得られたもの
知らなかった世界を知ったことで生まれた葛藤やもどかしさ。
これらの経験をしてきたからこそ、「今のフリーの立場で出来ることがあるばず」という思いはずっと消えません。
それは時に重く、時には苦しいものです。でも、それを知ったからこそ、今こうして頑張れる自分がいる。
そして、やれることがある!
これからも、足はすくみ、脇汗をかきながら、自分の決断を責めてしまうかもしれないけれど、新しい世界と出会い続けることで、人生はもっと豊かになるのではないかと思います。
皆さんにとって「知ってしまった世界」は、どのような意味を持ちますか?
これからの人生にどう活かせるのでしょうか?
よろしければ、考えてみてくださいね。
もしかしたら、新しい気づきがあるかもしれません。
(終わり)
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